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喜田貞吉『六十年の回顧』 共同入力 六十年の回顧 (231) 序言ならびに凡例 (5) 一 喜田貞吉略年譜 (6) 二 過去六十年の概観 (3) 三 発育不完全なる畸形児 (5) 四 感謝の六十年 (4) 五 わが生家のことども (6) 六 わが父のことども (8) 七 わが誕生と墳墓 (5) 八 負んぶして小学校へ (6) 九 杏斎樋口先生のことども (5) 一〇 懶け通した中学時代 (5) 一一 一ヵ月の学資金三円なり (3) 一二 月給取の生活 (4) 一三 第三高等中学校入学 (5) 一四 「ヘイ」と「ハイ」から方向転換 (6) 一五 三高在学中のことども (10) 一六 帝大入学と専攻学科の選択 (6) 一七 帝大在学中のことども (4) 一八 学士の肩書切売の五年間 (6) 一九 二足の草鞋 (6) 二〇 国定教科書の編纂 (5) 二一 法隆寺建築年代論 (7) 二二 平城京址の研究 (3) 二三 学位受領 (7) 二四 南北朝正閏問題 (13) 二五 国定教科書に対する論難攻撃 (9) 二六 問題の政治化 (10) 二七 国定教科書の改訂 (6) 二八 南朝正統説は既決の問題 (4) 二九 生活更新 (3) 三〇 個人雑誌の発行 (6)(しだ) 三一 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動 (7)(しだ) 三二 大名領知の調査、内田博士のこと、その他 (5) 三三 東北帝大勤務中のことども (6) 三四 還暦祝賀記念会 (15) 三五 旅行 (34)(しだ) 三六 論文著作年譜 (5)(しだ) 後記 (2)(しだ) ※ カッコの数字はおよそのページ量 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 (底本 p622、書誌一覧より) 公開:2008.5.12 更新:2010.7.23 カウンタを設置。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - wikipedia より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E7%94%B0%E8%B2%9E%E5%90%89 -- しだ (2008-05-12 13 08 24) 名前 コメント
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「喜田貞吉」の本だな 取得中です。 ※ ページ作成順でソート。(100ページまで) 2010.7.20:公開 2010.7.21:更新 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - ぬむ……、本文検索の結果ではなく、単純にページタイトルの検索結果らしい。 -- しだ (2010-07-20 00 59 22) ページタイトルだけというのは、けっこう制限が高い……。タイトル、著者ぐらいしか実用できない。「児童」では2ページしかない。 -- しだ (2010-07-20 01 06 01) 名前 コメント
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MT*2_8-震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 2009.9.12 第二巻 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円(税込) p.255 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(18項目)p.101 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。Windows Macintosh ハイブリッド。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright is public domain. 【T-Time 無償ダウンロード】 VOYAGER / ボイジャー 【新JIS漢字を表示できるフォントを入手しよう】 青空文庫 / —明日の本棚— (略)転じて本郷の通りへ出て、焼けたという一高へ行ってみると、これも噂ばかりで何のこともない。門内には避難者が群集している。様子を聞こうと門衛所の前へ行くと、「喜田先生ではありませんか」と声をかける生徒がいる。よく見るとこれは原博士(京大文学部長)の令息が警戒に立っておられるのだ。 帝大の大部はすでに無残にも焼け落ちている。門衛について聞くと、法文両学部は全滅で、図書館の書庫まで焼けてしまったという。なんという情けないことであろう。ここには金で補いのつかぬ多くの書籍があったはずだのに。しかし史料編纂掛が無事だと聞いて、国史科のためには思わず万歳を唱えざるを得なかった。 大学の前は避難者でいっぱいだ。その中を押しわけて本郷三丁目の十字路へ来てみると、角の長島雑貨店など二、三戸を残したほかは、本郷座の方へかけて見渡すかぎり一面の火だ。これではたとい水があったとて消防の手のまわるはずはない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君(史料編纂官)のお宅が気にかかるがとても寄りつかれそうもない。同君は自分ら仲間ではことに蔵書家として知られている人だ。浅草には黒川真道君や大槻如電翁がおられる。有名な書肆(しょし)浅倉屋がある。その莫大な蔵書はどうなったことであろうと気にかかる。 2_8.rm (朗読:RealMedia 形式 380KB、3'04'') #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第八号】 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (574KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia、『広辞苑』。 底本 震災日誌 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『社会史研究』第10巻第3号 1923(大正12)年11月 NDC 分類:915(日本文学:日記.書簡.紀行) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html 震災後記 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『社会史研究』第10巻第4号 1923(大正12)年12月 NDC 分類:915(日本文学:日記.書簡.紀行) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html 2009.9.20:公開 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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MT*2_45-火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 2010.5.29 第二巻 第四五号 火葬と大蔵 喜田貞吉 一 火葬のはじめということ 二 洗骨の風 三 大蔵(死体処理の一方法) 人身御供と人柱 喜田貞吉 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四五号】 (http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=185 file=milk_tea_2_45.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (636KB) 月末最終号:無料 p.144 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(75項目)p.398 ※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 人身御供と人柱 自分は『今昔物語』その他の古書に見ゆる人身御供の話をもって、事実そんなことがあったとは信じえない。しかし、神が時として人間を犠牲として要求するという思想が存在したことは、とうていこれを否定し難いのである。突然、海上で風波の難にあい、舟とともにこれに乗ったすべての人々の生命がうばわれる虞(おそれ)の生じた場合には、それは海神が人間を希望しているためだと解する。にわかに濃霧が山を閉じこめて、旅客が行くべき道を失ったり、あるいは烈風砂礫(されき)を飛ばして、行人の生命を奪ったりするような場合には、それは山神が人間を要求しているためだと解する。築いても築いても堤防がくずれたり、橋が流れたりする場合においてもまた同様である。ここにおいてか橘媛(たちばなひめ)は走水の海に身を投じた。強頸(こわくび)や衫子(ころもこ)は、茨田(まんだ)の断間(たえま)に身を投じた。長(ながら)の橋や経が島に人柱(ひとばしら)の伝説があるのもみなこれだ。つまりは神に犠牲として人間をささげるのである。この場合かならずしもその犠牲となるものは婦女とはかぎらない。別して人柱として選ばれたものは多く男子であった。人身御供の伝説にも時に男子がこれにあたった場合もあるが、古くは、かの奇稲田媛(くしなだひめ)の伝説をはじめとして、多く妙齢の婦女となっているということは、一つはそれが妙齢の婦女であるところに一種劇的の感興がおこるという意味もあるであろうが、一つは事実、婦女に欠乏を感ずる社会人が、婦女掠奪をなした場合の多かったためであろうと解せられる。 2_45.rm (朗読:RealMedia 形式 388KB、3'09'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 火葬と大蔵 焼屍・洗骨・散骨の風俗 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第三巻第七号」 1919(大正8)年6月 人身御供と人柱 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「中央史壇 第一一巻第二号生類犠牲研究」 1925(大正14)年8月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:385(風俗習慣.民俗学.民族学/通過儀礼.冠婚葬祭) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc385.html 2010.5.29:公開 目くそ鼻くそ。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - このページより、デフォルト編集権限を「管理者のみ」に設定してみます。 -- しだ (2010-05-29 11 58 47) 名前 コメント
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MT*2_44-道鏡皇胤論について 喜田貞吉 2010.5.22 第二巻 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 一 序言 二 道鏡問題に関する幾多の疑問 三 右の疑問の解決と皇統の尊厳 四 道鏡の暴悪と清麻呂の正義 五 事実の真相 六 結語 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四四号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=68163) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (432KB) 定価:200円(税込) p.104 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(34項目)p.138 ※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。 飛び出せ! 週刊ミルクティー* (略)まずもって自分のもっとも解し難しとするところのものは、帝権のもっとも隆盛であったかの奈良朝時代において、いかに天皇のご親任が厚く、また天皇が当時出家の天子にておわしたと云え、何ら皇室に因縁のない臣民出身の一僧侶を推して、仮にも天子に戴いてはとの大それた説があらわれてみたり、また天皇がそれにお迷いになられたり、道鏡自身もそれを聞いて、なるほどそうかとはじめて野心を起こしてみたりしたというところにある。当時にあってそんな思想が起こりえたということが、自分にとって不思議でならぬのである。(略) しかるにこれらの多くの疑問のすべては、道鏡が皇胤であったとの旧説を是認することによりて、ともかくもある程度まではことごとく解釈しえらるるのである。(略) このことは、じつは自分の創見ではない。去る明治二十年代において故田口卯吉博士が、その経営の雑誌『史海』の誌上ですでに多少の解決を試みられかけたのであった。 (略)道鏡素性に関する問題は、その時代に往々実例を見るがごとく、一皇族が母方の姓をついで臣籍に下ったものであったと解して、容易に通ずべきものなのである。彼はじつに多くの旧説のひとしく言うがごとく、施基(しきの)親王の王子で、おそらく河内の弓削氏の腹に生まれた者であったであろう。したがってそれが河内の弓削氏の人であり、その先祖に弓削(物部)の守屋の大臣(大連)があってもさしつかえはないではないか。彼が皇胤であることを隠さんとした史筆の陰に、そんなことがあっても一向さしつかえはないではなかろうか。 2_44.rm (朗読:RealMedia 形式 392KB、3'11'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 底本の親本:「斎東史話」立命館出版部 1935(昭和10)年10月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html 2010.5.23:公開 目くそ鼻くそまみれ。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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M-Tea*4_12-庄内と日高見(一)喜田貞吉 2011.10.15 第四巻 第一二号 庄内と日高見(一) 喜田貞吉 はしがき 庄内三郡 田川郡と飽海郡、出羽郡の設置 大名領地と草高——庄内は酒井氏の旧領 高張田地 本間家 酒田の三十六人衆 出羽国府の所在と夷地経営の弛張 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第四巻 第一二号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/167201) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (612KB) 定価:200円 p.173 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(84項目)p.396 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. 手長足長! 週刊あっぷるティー* 奥羽地方へ行ってみたい、要所要所をだけでも踏査したい。こう思っている矢先へ、この夏〔大正一一年(一九二二)〕、宮城女子師範の友人栗田茂次君から一度奥州へ出て来ぬか、郷土史熱心家なる桃生郡北村の斎藤荘次郎君から、桃生地方の実地を見てもらいたい、話も聞きたいといわれるから、共々出かけようじゃないかとの書信に接した。好機逸すべからずとは思ったが、折悪しく亡母の初盆で帰省せねばならぬときであったので、遺憾ながらその好意に応ずることができなかった。このたび少しばかりの余暇を繰り合わして、ともかく奥羽の一部をだけでも見てまわることのできたのは、畢竟、栗田・斎藤両君使嗾の賜だ。どうで陸前へ行くのなら、ついでに出羽方面にも足を入れてみたい。出羽方面の蝦夷経営を調査するには、まずもって庄内地方を手はじめとすべきだと、同地の物識り阿部正巳〔阿部正己。〕君にご都合をうかがうと、いつでもよろこんで案内をしてやろうといわれる。いよいよ思いたって十一月十七日の夜行で京都を出かけ、東京で多少の調査材料を整え、福島・米沢・山形・新庄もほぼ素通りのありさまで、いよいよ庄内へ入ったのが二十日の朝であった。庄内ではもっぱら阿部君のお世話になって、滞在四日中、雨天がちではあったが、おかげでほぼ、この地方に関する概念を得ることができた。その後は主として栗田君や斎藤君のお世話になって、いにしえの日高見国なる桃生郡内の各地を視察し、帰途に仙台で一泊して、翌日、多賀城址の案内をうけ、ともかく予定どおりの調査の目的を達することができた。ここにその間見聞の一斑を書きとめて、後の思い出の料とする。 4_12.rm (朗読:RealMedia 形式 444KB、3'36'') milk_tea_4_12.html (html ソーステキスト版 200KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社 1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行 初出:『社会史研究』第九巻第一、二号 1923(大正12)年1、2月 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:212(日本史/東北地方) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html 難字、求めよ 身親しく 斎われて いわわれて? いわう。いつかわれて? いつく。 窪泥 わでい? えでい? 平殄 へいてん? 戎卒 じゅうそつ? 日本歴史地理学会 栗田茂次 くりた? 宮城女子師範。喜田の友人。 斎藤荘次郎 さいとう そうじろう? 宮城県桃生郡北村の郷土史家。 徳尼公 とくあまぎみ? とくにこう? 本立銀行 信成合資会社 坂上茂樹 さかのうえの しげき? 大宿祢。出羽国守。 藤原行則 ふじわらの ゆきのり? 鎮秋田城国司介。(類聚国史) 『地誌提要』 『光丘翁事歴』 むしとりホイホイ 高敝 → 高敞か こうしょう 土地が高く、広くて、見はらしのよいこと。また、そのさま。 伊奈谷 → 伊那谷か いなたに 現、長野県伊那盆地。天竜川流域に発達した南北60キロ、東西4キロ内外の細長い盆地。 スリーパーズ日記 荘内 → 庄内 司馬遼太郎『オホーツク街道』(朝日新聞社、2005.8)読了。司馬さんと藤沢周平を対比するひとがあるが、ぼくならば、『街道をゆく』シリーズを残してくれた一点だけでも司馬さんを評価する。 この巻には、考古学に熱中した少年時代の司馬さんの姿が書いてある。一巻を通して、話題が考古学中心なのも珍しい。 『街道をゆく』の総索引を見ると、「喜田貞吉」にふれた部分が三か所ある。司馬遼太郎は喜田貞吉につながり、喜田貞吉は阿部正己につながる。 映画祭、『わが映画人生:本多猪四郎』、八年間の従軍体験、『南国の肌』『青い真珠』、ドキュメンタリー・科学もの、零戦特撮スタッフ、水爆実験、円谷……G、ラドン、モスラ。 月夜の下、マレーシア影絵「ワヤン・クリ」。ざらざらした水牛皮の切り絵、赤と緑、声いろ、ガムラン。 10.10 11 47 宮城南部・福島 震度4。推定M5.6。 10.11 吾妻山ガス噴出注意。新燃岳、引き続き注意。 2011.10.18:公開 玲瓏迷人。 自明に仕組まれたショック・ドクトリン、世田谷ラプソディ。 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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喜田貞吉「日本歴史物語〈上〉」図版 小村雪岱 こむら せったい 1887-1940(明治20.3.22-昭和15.10.17) 底本 底本:『日本歴史物語(上)No.1』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『日本歴史物語(上)』日本兒童文庫、アルス 1928(昭和3)年4月5日発行 [#図版(img00.jpg)、天の岩屋戸] [#図版(img01.png)] [#図版(img02.png)] [#図版(img03.png)] [#図版(img04.png)] [#図版(img05.png)] [#図版(img06.png)] [#図版(img07.png)] [#図版(img08.png)] [#図版(img09.png)] [#図版(img10.png)、武内宿禰] [#図版(img11.png)、百濟の使者佛像を奉る] [#図版(img12.png)、聖徳太子] [#図版(img13.png)、小野妹子隋の天子に會ふ] [#図版(img14.png)] [#図版(img15.png)] [#図版(img16.png)、奈良の都] [#図版(img17.png)、法隆寺] [#図版(img18.png)、大佛殿] [#図版(img19.png)] [#図版(img20.png)、平安京地圖] [#図版(img21.png)、菅原道真] [#図版(img22.png)、藤原道長] [#図版(img23.png)、一遍上人貧民に施行] [#図版(img24.png)、僧兵の図] [#図版(img25.png)、海賊] [#図版(img26.png)、秀郷] [#図版(img27.png)、空也上人] [#図版(img28.png)、坂上田村麿] [#図版(img29.png)、八幡太郎] 以上、30件。 2012.12.30:公開 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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MT*2_46-手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 2010.6.5 第二巻 第四六号 手長と足長 土蜘蛛研究 喜田貞吉 くぐつ名義考 古代社会組織の研究 喜田貞吉 一 緒言 二 クグツの名義に関する諸説(その一) 三 クグツの名義に関する諸説(その二) 四 久久都彦と久久都媛と 五 多爾具久(たにぐく)とクグツ 六 ヒキガエルあるいは蝦蟆(ガマ)とタニグク 七 莎草(くぐ)とクグツ 八 結論 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四六号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=70245) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (676KB) 定価:200円(税込) p.209 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(106項目)p.523 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 先年、柳田国男君は「(略)クグツは一種細い縄をもってあんだ袋のことで、傀儡の漢字とは直接の連絡はない。(略)たぶんは山沢湿地に自生する莎草(くぐ)という植物で、その袋を製したのであろう(略)」と述べられて、『袖中抄』以来の袋のクグツと傀儡子のクグツとの間に、ある連絡を求めておられるのである。(略) いまひとつ安藤正次君によって(略)発表せられた新説がある。それは傀儡の二字の朝鮮音から導かれたのであろうというのである。(略)わが傀儡子(クグツ)によく似たものを高麗で「広大」といったが、その朝鮮音はやはり Koang-tai で、傀儡の音とほとんど同じであるとのことをも援引せられているのである。安藤君は傀儡子(クグツ)は本来、支那より朝鮮をへて日本へ来たものであると考えられて、高麗の広大の徒なる揚水尺の一派の、歌舞伎芸を業とし、傀儡の戯を伝えたものが、わが国に流浪し来たって、これとともに傀儡すなわち広大の名称をも輸入し来たったものではあるまいかといわれているのである。(略) 『古事記』にはまた伊奘諾(いざなき)・伊奘冊(いざなみ)二尊の御子に、山の神・野の神などとならんで、木の神久久能智神(くくのちのかみ)というのがある。『日本紀』の一書には、やはり山の神・野の神・土の神などと並んで、木の神等を句句廼馳(くくのち)と号すともある。(略) わが古語に遍満行きわたらぬ所なきことを表わして、「天雲の向かふす極み、タニグクのさ渡る極み」、あるいは「タニグクのさ渡る極み、潮沫(しおはね)の留まるかぎり」(略)などいう成句がある。(略)しかるに、そのタニグクまたはタニククを、時にあるいは「谷蟆」または「谷潜」などと書いたがために、一般にこれはヒキガエルのことであると解している。自分もさきに「少彦名命の研究」を書いたときには、その解釈のもとに説をなしてみたのであったが、さらによく思うに、ヒキガエルをもって遍満行きわたらぬ所なきものの比喩にもちうることは、いかがであろうかと思われてならなくなった。 2_46.rm (朗読:RealMedia 形式 484KB、3'56'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 手長と足長 土蜘蛛研究 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第一巻第四号」 1919(大正8)年4月 くぐつ名義考 古代社会組織の研究 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第八巻第四〜五号」 1922(大正11)年10〜11月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 難字、求めよ。 臂肘 丘壟 丘隴(きゅうろう)か。 寂照上人 鳥口 ちょく 大諸礼 儡 傀儡か。 としもいった 大水上神 おおみなかみのかみ、か。 年山打聞 スリーパーズ日記 メモ。以下の問題が解決。 (1) ルビ内に丸カッコを使う場合。 (2) 見えづらい傍線・傍点の表示。 (3) t-move タグをもちいた場合の表示異常。 ruby タグでは (1) の表示に不具合があった。今回、!RB タグを用いて処理した。!RB は T-Time 固有のタグなので、一般的なブラウザへの汎用性はおそらくない。 (2) (3) は、いつのまにか問題が解消していたことに、いまごろ気がつく。さかのぼって見ると、第二巻三八号「清河八郎(一)」の際に「表示-縮尺-90%」を100%に変更している。どうやらトラブルは「縮尺-90%」に起因していたらしい。おさがわせいたしました、各位。 おととい、歩いていて猫の死体と遭遇。昨日もそのままになっていたので、どこに・だれに相談・処理をお願いすればいいのかわからず、市役所へ行ったところ、生活環境課の担当のかたに話を聞いてもらう。夕暮れの帰り道には、処理されたものか、かたづけられていた。 地元の新聞によれば、ここ数年、山形県内にイノシシ被害の報告例が増えているとのこと。幕末頃にも山寺あたりでイノシシがいたらしく、供養塔が残っている。(2010.6.4) 梅雨入りを前にして、あやめとバラがきれいで香るようになる。津野海太郎『小さなメディアの必要』を久しぶりに開く。(2010.6.6) 2010.6.8:公開 2010.6.12:更新 梅雨入らず、むくがひよひよ 豆でっぽう。 百年河清を待つ。目くそ鼻くそ、牛のよだれ。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 「蟾蜍」はヒキガエルと訓み、音読みでは「せんじょ」となる。『広辞苑』によれば、「(1) 月中にいるというヒキガエル。(2) 月の異称。月蟾」とある。「蟾蜍」を月もしくは月の光の隠喩(メタファー)と解釈すれば「さ渡る極み」や「遍満行きわたらぬ所なき」の説明としては適当のように思われる。が、喜田の文中に蟾蜍=月の記述はない。知らなかったということか。Wikipedia の「月」の項によれば、中国の伝説では「月には、夫のゲイを裏切った嫦娥(じょうが)の変じた蝦蟇(ヒキガエル)が住んでいる」とある。中国(道教)が月=ヒキガエルだとすれば、日本(神道)の月=ウサギ伝承は別系統ということか。なお、中国では月探査計画のことを「嫦娥計画」、探査衛星のことを「嫦娥1号」というらしい。 -- しだ (2010-06-12 23 28 29) にしても、土蜘蛛、案山子(カカシ)、くぐつ、ヒキガエル……とは、まるでナルトのセカイだってばよ。 -- しだ (2010-06-12 23 35 39) 名前 コメント
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六十年の回顧 後記 喜田貞吉 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)徒歩《かちある》き 後記 ○本書の原稿の一部を印刷所に交附して、いよいよ校正刷が出始めたのは三月の十日であった。しかもまだ植字の一番面倒な論文著作年譜が容易に脱稿せず、一方には引続き校正に従事しつつ、一方には原稿の整見を急ぐという始末で、随分忙しい思いをしながらも、二十九日に至って、やっと最後の頁まで初校を了することが出来たので、後始末は総て次男に一任して即夜出立、帰省の途に上った。三十一日に郷里で亡兄の三回忌を執行し、引続き四月三日から、東北大学学生の近畿史蹟見学を指導する予定になっているのである。 ○ところがあいにくなことに、東京出立の前日に風邪を引いて、重い頭を持ち廻っての旅行なのだ。悪い時には悪いことが重なって、船が小松島港に着く前から雨が降り出し、阿波としてはこのころに珍しい寒さの中を、田舎道の徒歩《かちある》きにすっかり風邪を引き添えて、実家に着くとそのまま寝床を伸べて貰ってもぐり込む。東京からはるばる阿波まで寝に来たようなものだ。平素ならば押しても通せる程度のものながら、前途に責任ある旅行を控えているので、特に大事を取って、久し振りの親類の人達にもあまり挨拶もせずに絶対安静だ。 ○明くれば四月一日、昨日に引かえて天気がよい。一昼夜静養したお蔭で今日は熱もなさそうだ。気分がよい。この分ならば明後三日からの学生指導も大丈夫と安心しつつ、なお念のために今日一日は静養して、寝床にもぐってこの「後記」に筆を執ることにした。 ○自分がこの回顧録の執筆に着手したのは昨年十二月の初めだった。当時の考えでは、年内に脱稿して一月二十四日の誕辰までには印刷を了し、還暦祝賀の御配慮に預った方々に贈呈し、また年始状を賜わった方々に対しても、御挨拶代りの誕辰状に代えたいつもりであった。 ○この機会に、簡単に自分の誕辰状なるものの主張を申述べたい。自分は数年前から形式的の年始状を廃して、その代りに誕辰を機として御挨拶することにしているのである。平素音信を通ずる機会のなかった懇意な人々の間において、せめて一年一度なんらかの機会をもって、お互いに無事を祝し合い、懇親を重ねるということは確かに有意義である。しかしながら、これを新年という一時に限るとなってみると、それがお互いに片便りの形式的なものとなるのみならず、多数を取り扱う者にとっては、年末の心忙しいさいや、新年のノンビリしたいさいをこれがために忙殺されて、実際上かなりの苦痛であるうえに、せっかく心を込められた意味深長な芳書を戴いた場合にも、それをゆっくり味いつつ拝見する余袷がなく、また先方にはもはや儀礼交換の意志のないところへさし上げて、かえって御迷惑をおかけしたり、当方からは怠っていた先から頂戴して、ために恐縮するというような、種々遺憾な場合が多い。そこで自分は考えた。各自が年始の代りに誕辰の機会をもって挨拶を交換したならば、ために一時に込み合うという心配もなく、過去一年間の経歴や感想をゆっくり述べることも出来れば、貰った方でもゆっくりこれを味うことが出来る。またこれに対して各自が答礼を出す習慣ともならば、そう大きな苦痛なしに二度までも、真に消息を通じ合うことが出来る訳だと考えたのであった。 ○この意味から自分は今年も年始状の御答礼をさし控えて、本書をもって誕辰の御挨拶に代えたい考えであったが、事予期に反して、ついにこんなに後れてしまった。この点厚く年始状を賜わった諸賢に対してお詫びする次第である。 ○なお自分はこの機会をもって、平素御懇情を賜わる諸賢の芳名簿を整理したいと思っている。ついてははなはだ御迷惑の次第ながら、本書を御落手くださった諸賢におかせられては、なにとぞその旨御一報賜わりたく、万一御通知を得ることが出来なかった場合には、あるいは将来御交際を賜わる御意志なきことと誤認して、新芳名簿から削除するというような失礼な結果となる場合がないとも申し難く、この点あらかじめ御諒承のほどをお願いする。なおそのおついでをもって、本書の内容について、誤謬その他お心付きの点を御示教賜わりたい。それによって自分は、他日重ねて訂正再版の機あらんことを期待しているのである。 (昭和八・四・一、郷里にて、貞吉記) 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 (底本 p622、書誌一覧より) 入力:しだひろし 校正:2008年6月12日現在、未登録・校正待ち xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 2010.3.31:更新 ※ カウンタを設置、編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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DL-MARKET 被災地支援チャリティー終了のおしらせ DL-MARKET 被災地支援チャリティーは2011年6月30日にて終了、7月5日に日本赤十字社あてに振込が完了のとことです。ご協力、ありがとうございました。 リンク先をチャリティー用から、通常購入用へ変更します。 2011.8.1:追記 【電子本を読んで、被災地を支援しよう!】 【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】 ※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。 ※ DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画の詳細。 http //support.dl-market.com/charity/index.html ※ 寄付金額はチャリティー終了まで、随時公表いたします。 ※ 義援金の用途に関しても極力、ウォッチしてお知らせします。 ※ みなさまのPRがこのチャリティー支援の大きな力となります。もし可能でございましたら、Twitter やHP、ブログ等でご紹介いただけますと幸いです。 みなさまのご協力を、こころよりお願い申し上げます。(しだ) M-Tea*3_38-春雪の出羽路の三日 喜田貞吉 2011.4.16 第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉 思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺——秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第三八号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/134145) ※ クリックすると購入サイトへジャンプします。 ※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。 (716KB) 定価:200円 p.174 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(103項目)p.602 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略) 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略) 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。 阿部正己 あべ まさき 1879-1946 阿部正巳。山形県飽海郡松嶺生まれ。北海道史編纂委員、山形県史跡調査員。著『川俣茂七郎』『伊藤鳳山』『出羽国分寺遺址調査・付・出羽国府位置』他。(『山形県関係文献目録〈人物編〉』『新編 庄内人名辞典』『松山町史 下巻』) 深沢多市 ふかさわ たいち 1874-1934 『秋田叢書』の編者。号は紫水。秋田県仙北郡生まれ。1899年(明治32)仙北郡役所に入り、次いで秋田県属、宮城県属、京都府属を歴任、京都府熊野郡長を最後に退官し、1921年(大正10)帰郷。この間、『秋田県史』(大正版)の編集に加わり、京都で喜田貞吉の知遇を得、また柳田国男と交わりを深くした。帰郷後は秋田県の県史蹟名勝記念物調査委員を嘱託。 3_38.rm (朗読:RealMedia 形式 548KB、4'26'') milk_tea_3_38.html (html ソーステキスト版 260KB) 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社 1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行 初出:『社会史研究』第9巻第6号 1923(大正12)年6月 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html NDC 分類:212(日本史/東北地方) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html 難字、求めよ 有吉君 山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の理事官。 新墓 しんぼ? スノーセット 金沢八幡社 金沢山八幡神社か。 車駅 経塚山 糸ナデ 石器。 血穢 大正村西松本 大和御所町。現、奈良県御所市。 前川増吉 『金沢史叢』 丹彩 『後三年絵巻』 『後三年合戦絵詞』か。 ニガタ節 金沢氏 歌かがい うたかがい? 民夷 蝦狄 泰安寺 山形。 山形ホテル もと秋元家の泰安寺の跡。 就封 襲封(しゅうほう)か。 サイドウ 柴灯・斎灯か。 松嶺町 まつみねちょう? 大沼 飽海郡松嶺町。 棒方 ぼうかた? 松嶺の本町・新町 三叉鉾 疫送り えきおくり? 病送(やまいおく)り? 布及 普及か。 千歳亭 四山楼 酒田山王山 細谷則理 羽後平鹿郡。 加藤将義 高橋栄 むしとりホイホイ 座敷団 → 座蒲団(ざぶとん)か。 加藤(直純) → 伊藤直純か。 川辺郡 → 河辺郡(かわべぐん)。 御物川 → 雄物川(おものがわ)。 いずれも本文は修正せず、編注をほどこした。 文中の「土人」もそのままとしました。 ほかに、 這入って → 入って 荘内 → 庄内 を、右辺に変更。 年表 七二九〜七四九(天平年間) 出羽・陸奥南部の蝦夷を征して雄勝の道を通じ、最上郡からただちに御物川〔雄物川〕の上流に出る。 八七七〜八八五(元慶) 当時なお仙北の地には、少なからず生蕃がいた。 八八〇(元慶四) 出羽の国司、上言。これに対し、勅して一年の復を賜い、不動穀六二〇〇石を三郡の狄俘八〇三人に給した。 九〇一〜九二三(延喜)前後〜 地方の政治はなはだしく紊乱。奥州においては蝦夷の族勢力を回復して、いったん設置した郡までが夷地に没入する。 一〇五一〜一〇六二 前九年の役。源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任・宗任らを討伐した戦役。平定した1062年(康平5)まで、実際は12年にわたって断続。後三年の役と共に源氏が東国に勢力を築く契機となる。前九年合戦。 一〇八三〜一〇八七 後三年の役。奥羽の清原家衡・武衡と一族の真衡らとの間の戦乱。前九年の役に続いて1083年(永保3)より87年(寛治1)の間に起こり、陸奥守源義家が家衡らを金沢柵に攻めて平定。後三年合戦。 一一八九(文治五) 源頼朝の奥州征伐。 一六〇四(慶長九) 佐竹義宣、社殿改修の時の棟札に「出羽国六个郡之鎮守」。 一六二二(元和八) 最上氏改易。 一六六四(寛文四) 郡名整理。おおいにその実際を誤る。 一七六七(明和四) 秋元家、武州川越から六万石で山形に移る。 一八四五(弘化二) 秋元家、上州館林に転じる。水野家、五万石で浜松から山形に転封。 一九二二(大正一一)一一月 喜田貞吉、はじめて出羽の踏査に着手。 一九二三(大正一二) 喜田「庄内雑事」『社会史研究』一月号。 一九二三(大正一二)一月二八日 大和御所町における差別撤廃講演。 一九二三(大正一二) 山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式。 スリーパーズ日記 司馬遼太郎『街道をゆく 26 嵯峨散歩、仙台・石巻』(朝日新聞社、2005.4)久しぶりに読み返す。仙台の旅を、司馬さんは阿武隈川の河口・荒浜から始める。 入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ 政宗 チャリティー状況(2011.4.24 現在) 出品数:2個 販売数:0個 売上金:0円 です。 2011.4.24:公開 八面玲瓏。 2011.8.1:更新 サンシュユ、レンギョウ、スイセン、ムスカリ、ハクモクレン。 ♪わたしたち、お別れなんですね…… 目くそ鼻くそ、おおいぬの陰嚢。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - NDC 分類の URL が間違っていたので、修正、ファイルをさしかえました。 -- しだ (2011-04-25 00 18 52) 復興構想会議のページを見るも、議事録が見あたらない。 -- しだ (2011-04-25 12 39 56) 名前 コメント